「古代の「主権の神聖」のための「みせしめ」」

次回の放送は令和6年11月24日 10:00からです

番組の趣旨

『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)が作られたのは元明天皇、元正天皇の御代です。この時代は、政治は藤原氏(不比等)を中心として動いていた時代です。天皇を中心とする日本国家が成立する時期でした。

そして、その藤原氏を中心とした貴族政治が頂点へ向かう平安時代初期の807年に作られた歴史書『古語拾遺(こごしゅうい)』という書物があります。これは斎部広成(いんべの ひろなり)が撰したもので、朝廷の祭祀に携わっていた斎部(忌部)氏が、中臣(藤原)氏に圧倒されたため、それに対抗して神代以来の祖先の功績を主張したもので、正史(記紀)にもれた同氏の古伝章を編纂したものですが、その冒頭に、次のようにあります。

蓋(けだ)し聞く、上古の世、未(いまだ)文字あらず、貴賎老少、口々に相伝(あいつた)へ、前言往行、存して忘れず、書契(しょけい)ありてより以来(このかた)、古(いにしえ)を談(かた)ることを好まず、浮華(ふか)競(きそ)ひおこり、かへりて旧老をわらふ、遂に人をして、世を歴(へ)ていよいよ新(あらた)に、事をして代(よ)をおひて変改せしむ、 かへりみて故実を問ふに、根源を識(し)ることなし。

つまり、昔は文字がなかったために、父祖の言行は、代々口伝(いいつたえ)に伝えて、よく記憶せられていたのに、なまじっか文字が入り、記録することになってからは、万事派手になって、文字のなかった昔をあざけり、軽んじて、歴史を忘れるようになった、と嘆いているのです。

そのような気風は、前々からあったのでしょうが、それについて昔からの口伝(いいつたえ)を、朝廷や重臣たちの家々にある記録を参考にして整理し、一筋の歴史に纏めあげたいと考えたのが天武天皇でした。その一筋に纏まったものを、当時28歳であった稗田阿礼(ひえだのあれ)に言いつけて、暗唱させたのでしょう。文字に書かないで、しかも記憶するには、声を出して読上げるのが一番よい方法で、昔の語部(かたりべ)は皆そうしたに違いありません。

これまでの口伝(いいつたえ)は、いろいろ面白い物語を伝えていました。しかし、困ったことには、甲の人は甲の物語を伝え、乙の人は乙の物語を伝えていて、わが国の歴史全体に及ぶものはなく、またその物語のどちらが先でどちらが後か、はっきりしないものも多かったのでしょう。それを前後の配列を整え、「国の歴史」として不要なもの、誤っているものを除き、記録によって補うものは補足して、一貫した「物語日本史」が出来ました。それを稗田阿礼(ひえだのあれ)に記憶させ、これを大安万侶(おおの やすまろ)が筆記したのが『古事記』です。

天武天皇10年に、朝廷において大規模な歴史編修の事業が初められ、これまでの記録を整理する一方、重臣豪族の家に伝わる書類も参考にし、シナ・朝鮮の古書とも照合し、正確を期す方針が立てられます。そのために長い年月を要しましたが、最後に舎人親王(とねりしんのう)を総裁として、完成させ、元正天皇の養老4年5月に奏上されたのが『日本書紀』です。

そして、『古事記』の出来た翌年の和銅6年に、土地の状況、山川の名、産物、古い口伝(いいつたえ)を書き上げ、朝廷へ提出するよう命令が国々に出されます。そこで、諸国はいろいろ調べて書き上げ、完成したものを朝廷に撰進したのが『風土記』です。これらには、当時の語部(かたりべ)の口伝(いいつたえ)が素直に写されています。しかし、後世、次第に失われ、現在は、常陸(茨城県)、播磨(兵庫県)、肥前(長崎・佐賀県)、豊後(大分県)の4つは、不完全ながら残り、『出雲国風土記』(島根県)については、ほぼ完全な形で残っています。各地の物語がなくなり、当時の言葉もだんだん消えていったのは残念なことです。

ところが、皆さんが『古事記』や『日本書紀』にもあり、「出雲神話」としてよく知るスサノヲのオロチ退治の物語などの神話が『出雲国風土記』には一切登場しないのは何故なのでしょうか。しかも『出雲国風土記』は、他の『風土記』に遅れること、命令が出てから13年もかかって撰進されているのです。

そこで、今回は、『高天原を追放された神~スサノヲの原像』をテーマに、記紀神話にある一見不可思議なメッセージを紐解きながら、視聴者の皆様と一緒に、スサノヲの性質を積み重ねながら、『出雲国風土記』から消えた、スサノヲの原像に迫ってみたいと思います。

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