生放送「藤原鎌足から不比等の時代へ」
次回の放送は令和7年4月6日 10:00からです
番組の趣旨
ふりかえってみると、飛鳥から白鳳へ、7世紀の100年は波乱にとみ、生気にあふれる時代でした。特に、この時期に形成のテンポを速めた日本古代国家は、持統天皇時代に到って、ひとまず完成しました。日本に初めて統一国家としてのまとまりが出来たのです。国家権力は日本の隅々にまでゆきわたり、国民の一人一人をとらえるようになりました。
それは、民衆生活を上から制約するものでしたが、同時に社会の安定を生み出しました。その安定の中から古代文化の花が色とりどりに咲き出るのであり、民衆は次の時代を切り拓く力を貯え始めたのです。
『日本書記』は持統天皇の譲位をもって、その叙述は終わっていますが、その後、古代国家がどのように展開し、どんな華麗な文化を築いていったのでしょうか。
元明天皇はわずか16年で藤原京から平城(なら)の地へ遷都します。藤原京をさらに拡大したこの巨大な都城は、どのような構想のもとに計画されたのでしょうか。また、新しい都市空間の出現によって人々の生活はどのように変化したのでしょうか。
奈良時代には女帝が目立ちます。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武の8代、74年の間に、女帝は元明・元正・孝謙=称徳と4代3人を数え、治世の合計は、満30年に近いものです。ほかに、25年におよぶ聖武天皇一代も、天皇と同い年の光明皇后の存在を抜きにしては考えられず、淳仁天皇6年の在位も、孝謙女帝の諒承あってこそ可能だったとすれば、男性の天皇が中心であったのは、光仁天皇の10年間と、つぎの桓武天皇の長岡遷都以前の4年間ほどにしかなりません。数字を並べてみると、74年中60年と、8世紀はいたって華やかですが、ふりかえって見れば、前世紀も、推古・皇極=斉明・持統と、女帝はやはり4代3人であり、治世の合計は、7世紀100年間の半分、50年に近かったのです。
ここで問題は、女性が天皇でも不自由はないのかということです。「まつりごと(政治)」という日本語は、本来祭祀を意味します。まつりの場の中心には、巫女のような女性が欠くことの出来ない存在でした。だとすれば、7、8世紀に、女帝があいついで推戴された理由にも、本質的には同じものがあったのかも知れません。
まつりごとの、政治という側面では、皇太子や大臣など補佐するものが常にいるのが普通でした。天皇が彼らを信頼しさえすれば、政務もとどこおりなく進行します。7世紀の女帝たちには、蘇我馬子・蝦夷・入鹿とつづいた大臣(おおおみ)や、聖徳太子・中大兄皇子・高市皇子のような皇族の執政官と、太夫(まえつきみ)と呼ばれる朝廷豪族の審議官たちがいました。8世紀の律令体制では、これにあたるものが、太政官首脳部の会議であり、そこで決定したことを天皇に奏上し、裁可を仰ぐという手続きをふみます。どのような手続きをふんでも、結局は天皇の大命(おおみこと)として、日本中に伝えられるのです。
奈良時代は、天平時代とも言われ、そのイメージは「あおによし ならのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり」と詠われた都の栄光がきらめきますが、天平文化の背後には、苦役にかりだされた民衆の血と汗がにじみ、奈良時代史には、波瀾にみちた政争と政変があいつぎ、多くの皇親や貴族・官僚たちも、その前途の不安におののき、その栄進と地位の保全に懸命でした。女帝輩出の8世紀の背景には、どすぐろい政争や内乱があり、天平の明暗が奈良時代女帝史の光と影を形づくっています。
そこで今回のシリーズは『ゆれ動く天皇観~飛鳥から天平へ』をテーマに、律令制定と平城遷都の推進者である藤原不比等を中心に、女帝、采女(うねめ)、女孺(にょじゅ)、命婦(みょうふ)という「女性官人」の存在にスポットを当てながら、奈良時代の女性たちの生き方について、視聴者の皆様と考えてまいりたいと思います。
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- 出演者はコメンテーター/ゲスト/パーソナリティ/アシスタントの順で表記した。
- 初回出演者は太字とした。
- 敬称略