生放送「引揚げ元年1946-それから80年、日本国・台湾国の夜明け」

次回の放送は令和8年5月24日 10:00からです

番組の趣旨

日清戦争の結果、日本の領土となった台湾への航路が、明治29年(1896)、台湾総督府の命令を受けて大阪商船によって開設され、「須磨丸」などの3隻の汽船が、大阪―基隆を結びました。同年、陸軍省の命令航路として、日本郵船が神戸―門司―基隆間を開設し、翌30年に台湾総督府命令航路となりました。

使用船は「山城丸(2852t)」と「弘済丸(2635t)」、大きさで劣った大阪商船は、明治31年に、新造船「台北丸(3300t)」、「台中丸(3213t)」を投入しました。

日本郵船は、続いて「西京丸」、「信濃丸」、「備後丸」、「因幡丸」を投入して商船の大型化を図りました。大阪商船では、明治43年(1910)、南米航路から「笠戸丸」を移して前年から配船されていた「義勇艦さくら丸」を置き換え、東洋汽船の北米航路から移籍した「亜米利加丸」を明治44年に、「香港丸」を大正3年に投入し、6000トン級の使用船3隻で、月間6回の航海となりました。

日本郵船の神戸―門司―基隆線は、大正12年(1923)には、独立して近海郵船となります。昭和3年(1928)に「吉野丸(8998t)」、「大和丸(9655t)」を投入し、昭和12年(1937)、初めての新造船「冨士丸(9138t)」を投入して、大型優秀船化を図りました。昭和14年(1939)、日本郵船と合併しました。

大阪商船は、大正13年、1万トン級の「蓬莱丸」「扶桑丸」を投入、昭和2年に「瑞穂丸」を投入して定時性を確保しました。昭和9年には、「高千穂丸」を投入して大型船舶によるサービスを確保しました。昭和15年当時、最も有名だったのが、「高砂丸」で4・5日に1回の割で、神戸―門司―基隆を結んでいました。この船は、戦後も引き揚げ船として、元関釜連絡船の「興安丸」とともに、日本人の記憶に残る一隻です。

しかし、昭和17年、大東亜戦争が始まると「船舶運営化」に、すべての航路とともに台湾航路も移管されていきました。

戦前の台湾人にとって、この基隆、門司と神戸は、上京に際して必ず立ち寄る港でした。現在でも、箱崎埠頭や福岡空港も門司税関に属しているのは、その名残りなのです。

そこで、今回のシリーズでは、『この人に聞く』と題して、「引揚げ元年1946-それから80年、日本国・台湾国の夜明け」をテーマに、基隆・門司・神戸に跨(またが)る「内台航路」を中心に、人、物、場所で織りなされた物語を、西日本台湾学友会元会長の柳原憲一先生に伺いながら、戦前から戦後の日台間の時空変化を視聴者の皆様と考えてまいりたいと思います。

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