生放送「隻眼の慈愛溢れた生と死の文学者」

次回の放送は令和8年6月14日 10:00からです

番組の趣旨

小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)は、今から176年前の1850年(嘉永3年)6月27日に現在のギリシャ(当時はイギリスの保護国イオニア諸島合衆国(United States of the Ionian Islands)のレフカダ島(ハーンのミドルネーム「ラフカディオ」(レフカズィオス=レフカダ島の)は、この島の名に由来し、古名はレウカス島(古代ギリシャ語)で、ギリシャ語で「白」を意味する「レフコス」、あるいは「白い岩」を意味する「レフカタス」に由来する)に生まれました。父はアイルランド人の英国陸軍軍医のチャールズ・ブッシュ・ハーン、母はギリシャ人ローザ・アントニウ・カシマチでパトリック・ラフカディオ・ハーンと名付けられました。パトリックとはアイルランドの守護聖人聖パトリック(387年ごろ~461年と伝えられる)に因んでいます。

八雲は家庭的に恵まれていませんでした。母とハーンは父の生家のあるアイルランドのダブリンに移り住みましたが父は度々海外に赴任して留守が長く、大富豪の大叔母の世話になりましたが、母はアイルランドの気候や風習(宗教)が合わず、ハーンを置いてギリシャに帰国します。以後、終生生母には会えませんでした。

7歳の時に両親は離婚します。16歳の時には事故で左目を失明し、それはハーンの生涯に深刻な影を落とします。17歳の時には大叔母のブレナンが破産し、19歳の時移民船で単身渡米します。アメリカでは様々な職を転々とし極貧の生活を送ります。

24歳の時に事件記者として認められ結婚もしますがそれが問題となり会社を解雇されます。27歳の時に結婚が破局し新しい会社も退職しニューオーリンズに行きます。30歳の時に新聞記者として名が上がり、「タイムズ・デモクラット」紙の文芸部長になります。32歳の時にエリザベス・ビスランドと、34歳の時にニューオーリンズ産業綿花百年記念万国博覧会で服部一三と知り合い懇意となります。

37歳の時に会社を退職しニューヨクやマルティニーク島へ行きます。そして、39歳の時にハーパー社(ニューヨーク)の勧めで日本行きを決意し、1890年(明治23)40歳の3月18日、アビシニア号でカナダのバンクーバーを出発、4月4日、横浜に到着します。

さて、ここからがハーン(八雲)の日本時代の始まりであり、その魂と魂の出会いによって心のさざめきが始まり数々の心震わす名作、名文が生み出されるのです。

今回のシリーズはその名作を紹介しながら、当時の八雲の日本文化に対する深い感慨、何が八雲の魂を揺さぶったのかを視聴者と共に味わってみたいと思います。

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