生放送「「信仰を持たない」のに、なぜ手を合わせるのか」
次回の放送は令和8年9月27日 10:00からです
番組の趣旨
「あなたは信仰を持っていますか?」という問いに、多くの日本人は「いいえ」と応えます。しかし、神社では、お賽銭を投げ、二礼二拍手一礼をし、仏壇の前では手を合わせます。大切な人の写真に「今日もよろしくお願いします」と声をかけます。老いた大木に思わず頭を下げます。
これらは矛盾したものでしょうか?「信仰がない」という自己申告と、「手を合わせる」という行為の間に何があるのでしょうか?
哲学者・西田幾多郎の弟子で、禅の修行を深めた思想家・鈴木大拙師は、日本人の宗教的感性を「日本的霊性」と言う言葉で捉えようとしました。それは特定の宗教を「信じる・信じない」という問い以前の、もっと根源的な「感じ方」のことです。
今回は、この「日本的霊性」を手掛かりに、「宗教を持たない」のに「手を合わせる」という、日本人の不思議な精神性の正体を考えてみたいと思います。
「霊性」という言葉は、英語のスピリチュアリティに近い訳語として使われることが多いのですが、日本語の「霊性」には独自の重みがあります。
鈴木大拙師は、昭和19年(1944)に著した『日本的霊性』の中で、「霊性とは、知性・感情・意志という心の三要素を超えた、人間の最も深い次元だ」と言っています。それは、「神を信じる」という知的判断でも、「神を愛する」という意志でもありません。もっと前の層にある、「存在そのものへの感受性」、「ここに何かある」「この存在は、あるだけで尊い」という直感――、それが「霊性」です。
日本人の多くは、特定の宗教教義を「信じる」という段階に至らなくても、この霊性の次元で世界を感じている、というのが、鈴木大拙師の洞察でした。
日本語に、「なんとなく」という言葉があります。「何となく手を合わせる」、「何となく神社に行く」、「何となく大切な気がする」、このような「なんとなく」の中に、日本的霊性の本質があると思います。
「なんとなく」は、理由を言語化できない、という意味です。理論的な理由があるから行動するのではなく、体が動く、心が動く、その「前知的」な動きが「なんとなく」なのです。
神社の前で自然に背筋が伸びる、古い巨木の前で自然に立ち止る。亡くなった人の写真に自然に話しかける、これらは「信仰しているから」という理由で行なわれるのでなく、「なんとなく、そうしたい」という体の動きから来ているのです。
この「なんとなく」は、何千年にも亘って積み重なった文化的感性の蓄積なのです。先祖が手を合わせてきた場所で、自分も手を合わせる。その繰り返しが、「理由のない尊さ」として体に刻まれているのです。
言語化できない感性こそが、最も深く根付いた文化です。「なぜ?」と聞かれると答えられないが、「そしないといけない」という感覚、これが霊性の現われ方なのではないでしょうか。
そこで、今回のシリーズでは『日本人の不思議な精神性(1)日本的霊性とは何か』をテーマに、日本的霊性を手掛かりとして、「日本人の不思議な精神性」について、視聴者の皆様と考えてまいりたいと思います。
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