江戸末期の探検家と「海防論」
日本再発見・本篇第158弾 全6回 令和5年1月29日~3月5日放送
番組の趣旨
小林一茶の俳句に「春風の 国にあやかれ おろしあ舟」というのがあります。これは文化元年(1804)のロシアのレザノフの来航を背景に詠まれた句です。乱暴を働くロシアの船について一茶は、春風の国、日本のように、おとなしくして欲しいと願ったのです。
18世紀の末頃から、日本列島の海域に欧米諸国の船が出没するようになります。最初にやって来たのはロシアでした。ロシアは16世紀の後半からシベリアの征服を開始し、その勢力は17世紀末にはカムチャッカ半島にまで到達していました。
ロシアは極寒の地、シベリアを経営するための食糧など生活必需品の供給を日本に求めようと考えました。ここで、寛政4年(1792)に最初の使節、ラクスマンを派遣し、日本人漂流民等を送り届け、日本に通商を求めます。
この日本人漂流民の中に大黒屋光太夫がいました。大黒屋光太夫は、船頭として天明2年(1782)12月、伊勢の白子から江戸へ向け、米を積んで出港します。しかし、航行中に遭難し、7ヶ月近く漂流したあげく、ロシア船に救われます。そして帰国を願いつつもシベリアを横断するという数奇の体験をし、ロシアのカテリーナ女帝に面会します。そして彼は、通訳を兼ねて10年振りに帰国を果たすのです。
文化元年(1804)にはレザノフが派遣され、幕府に通商を求めました。幕府が鎖国を理由に拒否すると、彼らは樺太や択捉島にある日本人の居留地を襲撃し日本人を殺傷しました。この報告が届くと、国内ではロシアに対する危機感が高まります。
そして、幕府は松前藩の領地である蝦夷地(北海道)を幕府の直轄地として、ロシアに備え、近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太を含む蝦夷地の大掛かりな調査を命じます。間宮林蔵は、蝦夷地から樺太にかけ踏査し、従来大陸の陸続きであると思われていた樺太が島であることを世界で初めて発見しました。
19世紀に入ると、イギリスとアメリカの船も、日本近海にやって来ます。文化5年(1808)には、イギリスの軍艦フェートン号は、オランダの国旗を揚げてオランダ船を擬装し、長崎港に入港します。フェートン号は出迎えたオランダの商館員を捕え、湾内を探索し、薪と水や食糧を強奪しました。いわゆるフェートン号事件です。その後も諸藩と異国船をめぐり事件が相次ぎ、ついに幕府は、文政8年(1825)に異国船打払令を出し、外国船が来たら直ちに打払えと命じました。
天保8年(1837)、アメリカの商船モリソン号が、通商を求めるとともに、救助した7人の日本人漂流民を送り届ける目的でやって来ますが、幕府は打払令に従い、砲撃して追い払います。こうした動向の中で、高野長英の幕府批判が出たり、欧米諸国の接近に脅威を感じ、国防の必要を説く人々が出て来ました。林子平は『海国兵談』を著わし、海防論を展開しました。これが江戸末期の日本の実相です。
現在の日本の状況は、グローバル経済という新たな通商と外国資本による領土買収、ロシア、中国、韓国、北朝鮮の問題等、江戸末期と酷似しています。そこで、今回のシリーズでは『江戸末期の探検家と「海防論」』をテーマに、国防の必要性と領土問題について視聴者の皆様と、改めて考えて参りたいと思います。
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