島津日新公の「島津いろは歌」を読む
日本再発見・本篇第178弾 全1回 令和7年12月14日~12月14日放送
番組の趣旨
鹿児島のことわざのひとつに、「泣こかい 跳ぼかい 泣こよっか ひっ跳ベ」というのがあります。これは、「事に当たって躊躇している人に対して、この際、思い切って跳んでみることが肝心なのだ」という意味の諺です。この他にも、鹿児島のことわざには、素晴らしいものが沢山あります。そのことわざの基礎になっているのが、島津日新斉、即ち、薩摩の戦国武将・島津忠良(ただよし)が人生訓を説いた「いろは歌」、そして「郷中教育(ごちゅうきょういく)」、更に西郷隆盛が人としての心の糧を伝えた「西郷南洲遺訓」だと推測されています。
例えば、島津日新斉が創られた「いろは歌」にこんな一首があります。「古(いにしえ)の道を聞いても 唱えても我が行いにせずは 甲斐なし」。意味は、聖人や賢人が教えて下さった倫(みち)を何回も何回も聞いても、また、私はよく知っていると、どんなに自慢しても、その教えを自分の行いにしなければ役に立たないという事です。冒頭の鹿児島のことわざに通じる部分があります。
この歌は、かつての寺子屋教育の教本=教科書になり、薩摩隼人たちの人生訓として広く唱えられました。
また、最近のニュースでいじめの問題も聞かれますが、しかし、かつての薩摩には「郷中(ごちゅう)」と呼ぶ組織があって、いじめなどは、郷中の中で、稚児は先輩の長稚児(おせちご)が、長稚児の問題は大人の二才衆(にせしゅう)が導き、解決することで「和」が保たれていました。
薩摩島津家は、鎌倉時代以来、明治に至るまで続く名家中の名家ですが、時代の変換期に燦然と輝く名君を出すという幸運に恵まれました。戦国時代には、島津家中興の祖・島津忠良(日新公)を輩出し、その子・貴久は「島津の英主」と称えられ、貴久の子である「島津四兄弟」は、義久・義弘・歳久・家久とそれぞれ文武ともに才能あふれる武将たちでした。
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は終始の利害を察するの智計ならびなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と日新公が孫の四人を評した言葉です。
親兄弟であっても下克上が日常茶飯事であった戦国の世においても島津四兄弟の結束は固く、島津家興隆を実現させ豊臣秀吉の九州征伐の前に屈するまで九州全域に勢力を拡大してきました。
幕末期には「蘭癖大名」の代表とされる島津重豪(しげひで)、そして祖父である重豪の影響を強く受けた幕末最大の名君・島津斉彬(なりあきら)、そして斉彬の異母兄弟で、斉彬の逝去後、薩摩藩の実権を握った島津久光と立て続けに名君を輩出します。
時代の節目に名君が出たことは、鎌倉時代に土着から始まった島津家が明治維新まで名家として続き、維新時には薩摩勢力が日本を動かすという結果に繋がりました。その背景には、薩摩藩の「郷中教育」があり、その基本となったと言われる47首の歌、島津日新公の「島津いろは歌」がありました。
この「日新公いろは歌」は、島津家中興の祖である島津忠良(ただよし)が5年の歳月をかけ完成させたと言います。島津義弘はこの「いろは歌」に多大な影響を受け、その後も薩摩武士、士道教育の教典となったと言われています。
そこで今回のシリーズでは、前回の「西郷南洲遺訓」に引き続き、薩摩藩政や藩士の教育の規範ともなり、長い年月に亙って、一般庶民から武士に至るまで、あまねく親しまれれた『島津日新公の「島津いろは歌」を読む』をテーマに「いろは歌」を紹介しながら、47首の歌を通して、視聴者の皆様とともに、現代の私たちにも通じる人生の多くの示唆を読み取って参りたいと思います。
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