『見るなの禁止』の物語と日本人の心性
特別篇 第39弾 令和5年6月4日放送
番組の趣旨
皆さんは、日本の昔話で「鶴の恩返し」という物語をよくご存知でしょう。「見てはいけない」という禁を課せられた男性主人公がこれを破って、女性主人公の秘密を暴いてしまい、覗かれた女性は退去するという筋書きです。正体を覗かれた主人公たちは傷ついて、見られて恥をかいて退去するのですが、この「正体を見られて去るという国民的な物語の在り方」、つまりは「恥の文化」に、事実を見たり見せたりすることに対する、私たちの大きな困難の原点を見ることができると思います。
また、同様の禁止が登場する日本の「国生み神話」では、父神イザナギは母神イザナミの腐乱した死体を見て逃げ出し、怒る母神は見捨てられてしまいます。
日本人は裏と表を使い分けてきましたが、日常的にも「見るなの禁止」で弱点や傷つきを裏に隠し、恥じて見せない傾向、そして周囲もこれを見ない傾向として表れています。つまり、私たちは、対象の表と裏が激しく食い違い幻滅する時に、それを「裏切り」というのだと思うのです。そのために『夕鶴』の男性主人公のように、私たちは呆然と立ち尽くし、相手を見ていないことが多いのかも知れません。
神話や昔話が伝えるように、太古からいつも人や自然が私たちを裏切り、幻滅させることを思い知って生きてきたのだとすれば、今はまさに、表向きは美女だったものが、裏では傷ついていた大地を直視している瞬間なのかも知れません。しかし、そこで私たちは、ただ結末を反復し呆然と立ち尽くすわけにも、イザナギのように逃げ出すわけにも行きません。「見るなの禁止」が破られたら、それで話が終わりではなく、これから私たちは傷ついた日本を抱えて生きていかななければならないのですから。悲劇の「その後」が展開しているという意味では、恥じて去っていかない「夕鶴」や、これを見て逃げない「イザナギ」が数多く登場している瞬間なのです。
日本に伝わる「見るなの禁止」の物語は、西洋の同じモチーフの物語と比較したとき、異なる独自の性質をもつとともに、日本人の自我の性質や心の構造など心理臨床において重要な視座を与えてくれることから、分析心理学者の河合隼雄氏や精神分析家の北山修氏などによって、この「見るなの禁止」の物語の分析が行なわれて来ました。両氏はそれぞれ、視点を「男性側」、「女性側」、「見た側」、「見られた側」に置いており、見た側の「罪」、「見るなの禁」を破った側の「罪」、と「見られた側」の「恥」という「罪」と「恥」から日本人の心性を映し出そうとしています。
そこで今回は、特別番組として、日本の神話や昔話や他の国の神話や昔話のモチーフになっている「見るなの禁止」(見てはいけないというタブー)というテーマを取り上げながら、禁止を破った者が罪に問われないという日本特有の展開がどうして生まれたのか、「見るなの禁止」の物語と日本人の心性について視聴者の皆様と共に考えて参りたいと思います。
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