この人に聞く~元西日本台湾学友会会長・柳原憲一氏

日本再発見・周年篇 第29弾 令和3年6月6日放送

番組の趣旨

明治27~28年(1894~95)に起きた日清戦争と、その終結として日清講和条約、並びその後不本意でありながら展開された台湾領有戦争により、日本と台湾の間に絆が生まれました。

明治30年(1897)風土病と住民反乱に手を焼いた日本は、帝國議会では台湾を1億円でフランスに売却すべきという「台湾売却論」が登場しました。幸いに、明治31~39年(1898~1906)に在任した児玉源太郎台湾総督と後藤新平民政長官の尽力により、台湾は教育、行政、殖産、インフラ整備などあらゆる面で近代化が進みました。

明治33~34年(1900~01)北清事変の時、児玉源太郎は台湾総督でありながら、陸軍大臣を兼任しました。明治37~38年(1904~06)日露戦争の時、源太郎は再度台湾総督のまま、満州軍総参謀長を兼帶しました。このように、台湾を一生懸命率いたトップが、同時に日本の存亡のキーマンとして頑張っていたことが、日台の絆をさらに強く結んだと思います。

時は昭和12年(1937)8月14日、日本の国運を決める戦争と言っても過言ではない、第二次上海事変が起きました。もし、あの戦争に負けていたら、日本は上海から追い出されるだけでなく、独・ソ・英・米・仏・伊の応援を得た蒋介石中国軍は、華北に居る日本軍民を殲滅し、ソ連軍も満州に巻き返すはずです。そうすると、終戦は1945年ではなく、1941年ごろになり、日本はアメリカではなく、中国やソ連に占領されていたでしょう。勿論、日米安保もなければ、国体の護持もあり得なかったと思います。

この第二次上海事変で辛うじて勝てた要因は、「男が尽きたら女が兵隊になって戦場へ行く」という明治以来、御国のため一丸となって戦う精神と、8月15日上海に上陸した強烈台風や、8月14日台湾から決死で出撃した海軍鹿屋航空隊による杭州空爆などが挙げられます。

本日から、連続3回シリーズで、先ずは、日中双方の歴史記録に基づき、第二次上海事変時、蒋介石の思惑、日本を取り囲む情勢、激戦の様子、戦局の展開などを検証したいと思います。更に、対中、対米関係の視点から大東亜戦争における日本の軍事的、外交的アンバランスについて考えてみたいと思います。 次は、武漢肺炎禍を発生当初から中国に期待せず、騙されず、侵されず、自ら検証し、対策を立て、防護網を築き、日米としっかり連繋しながら、本日まで健闘してきた台湾を見ていきたいと思います。 そして、近日、市中感染が発生したにも拘らず、御国のために国民が一丸となって、難局を乗り越えようとする台湾の実例を挙げて考えてみたいと思います。

維新以来、中国に片思いを持つ日本は、度重ねて中国に騙されたり、裏切られたり、翻弄されたりして、数々の辛い思いを味わってきました。これからは、台湾との絆を大事にして、明治の精神を内面化した台湾を鑑に、中国に依頼せず、乞いせず、怯えず、誇らしき明治日本の気概で、21世紀東アジアを牽引して頑張りたいと願っています。神風はきっと吹いてくると信じます。

もっと見る

閉じる

アーカイブ

一覧へ戻る
お問い合わせお問合せ