神仏習合~日本民族存続のカギ

日本再発見・本篇第166弾 全5回 令和6年3月10日~4月7日放送

番組の趣旨

慶應3年12月9日、「王政復古」の大号令が布告されます。この時より、明治国家の歩みが始まります。では、ここで言う復すべき「古」とはいつの時代を指しているのでしょうか。源頼朝の鎌倉開府以前でしょうか、それとも摂関期以前でしょうか。そうではありません。大号令の宣旨に「諸事神武創業之始ニ原キ」とあるように、神武天皇の時代にあったと信じられていた、「祭政一致」の政体に回帰することを意味したのです。そして、その実現のために、新政府が目指したのが「神道の国教化」でした。

慶應4年(明治元年)、「五箇条御誓文」が発布される前日の3月13日、太政官より祭政一致・神祇官再興が布告、翌明治2年7月には神祇官が設置されます。さらに翌年正月には「大教宣布の詔」が出されます。「大教」とは神道の意味です。政府は各地に宣教使を派遣して神道の国民教化を図ったのです。

神道の国教化の意図するところは、外に向けてはキリスト教の流入阻止であり、内においては、神道を「神武創業之始」の「純粋」な姿に復すること、つまり神仏習合的信仰の排除(神仏分離)にありました。

明治元年の祭政一致の布告の4日後の3月17日には、社僧(神社に属する僧侶)の還俗が命じられ、更に28日には「神仏判然令」が出されます。この報令により、権現(ごんげん)・牛頭(ごず)・天王(てんおう)などの、仏教に由来する神名の使用が禁止されます。そして仏像を神体するところは取替え、鰐口・梵鐘など仏教関係の用具を取り除くことが命令されます。併せて、寺院の統合や、僧侶・修験者の還俗が進められます。その結果、多くの堂舎・経巻・仏像が破棄されることになりました。これが所謂「廃仏毀釈」です。この廃仏毀釈の嵐は全国に吹き荒れ、文化的、歴史的価値のある文物が失われ、あるいは巷間(こうかん)に流失しました。

藤原氏の氏寺として大和国一国の国主であった興福寺は、春日大社と一体だったため廃寺となり、僧侶全員が還俗させられます。五重塔が25円で売られたという有名な話はこの時のことです。結局、五重塔自体は残りますが殆どの堂舎は収公・破却されてしまいます。その後、興福寺は再興されたものの、往時の姿に戻ることはありませんでした。尚、現在も再建事業は進められています。

明治3年の「大教宣布」により神道の国教化はいよいよ進行すると思われました。ところが、その翌年の8月、神祇官は神祇省に格下げされ以後後退しはじめます。それは祭政一致の政体の実行が困難だったからです。そして神道国教化の政策は事実上放棄されることになります。

しかし、神社制度の再編は着実に進行し、伊勢神宮・宮中祭祀の改革、神社祭祀の体系化、社格の整理、神社合祀等が実施されていきます。それとともに、挫折した国教化に代わって、神道を宗教の埒外(らちがい)に置く、「神道非宗教論」が台頭するのです。

神仏習合的な進行形態は、近代に至り、神道側からも仏教側からも否定され、特に仏教的要素を排除した神道は、新しい宗教として再編されました。しかし、日本の神祇信仰および言説は、仏教伝来以降、仏教との関わりの中で展開してきたのであり、それは神仏習合の歴史そのものです。にも係らず、日本の神祇信仰が仏教の中に完全に融解してしまわずに、「神道」として独自性を保持しえたのはなぜでしょうか。

今回のシリーズでは『神仏習合~日本民族存続のカギ』をテーマに、神仏習合と国民の精神生活を中心に「神道がなぜ国教化出来ないのか」を視聴者の皆様と考えて参りたいと思います。

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