終戦の日~英霊顕彰 大東亜戦争終結の詔書

特別篇 第35弾 令和3年8月15日放送

番組の趣旨

終戦の日の今日は、「英霊を追悼し、感謝の誠を捧げる日」です。日本政府主催をはじめ、多くの式典が全国各地で開催されます。そこでは数多(あまた)の「反省」の言葉が捧げられることでしょう。そして、新聞やニュースが「反省」の言葉を伝えます。しかし、「反省」と「追悼」は決して同時には出来ないのです。

高村光太郎の詩に、『一億の号泣』という作品があります。敗戦の翌日の昭和20年8月16日に書かれたこの詩は、「民族の時間の臍における爆発」として高く評価されています。民族の歴史の上における決定的一瞬に、はからずも記されてしまった噴火的詩歌です。その価値は民族的永遠を貫いて寸毫の揺らぎもありません。高村光太郎は、戦後に上梓した『典型』にはこの詩を収めていません。戦時中の作品はもちろん、終戦直後に書いた作品さえ捨て、それらいわゆる「戦争協力詩」は「最後の巨大な審判者の手に順ふほかない」と、身を持したからです。

しかし、戦後76年の時間を隔てて今この詩を読むと、戦中を生きた日本人の精神の骨格がかくも太く、その器にたたえられている水の何と清く深いことか、言葉にならないほどの感動が心を揺るがします。

今日の人間が、あざとくも、歴史認識がどうのこうの、A級戦犯の分祀がどうのこうの、靖國参拝がどうのこうの、とよくもまあ軽々と言えたものだと思ってしまいます。戦争に負けるという経験が当時を生きた人々の心に何をもたらしたか、この詩を読めばおのずと粛然として襟を正したくなるに違いありません。そしてまた、祖国ありと体感できた世代は、戦後をステージにした人間にとって何とうらやましいことかと思ってしまいます。

今日の平和、今日の安寧は、あの一億の号泣を母胎としてその形相を現したものなのです。そこに、高村光太郎が鎮魂し、そこに祖国日本が実存しているのです。そういう大和心を内にたたえて、戦後を生きていたのです。

昭和20年8月15日に発せられた玉音放送という国民の集合的記憶を「戦前と戦後の断絶の象徴」とすることによって、敗戦の事実から目を背けてきた日本。それは、右派・左派の双方にとっても都合のよいものでした。

そして、あの日から76年後の今日、記憶は集合化され歴史へと共有化されていきました。その結果、「記憶」が「歴史」とされてしまったのです。記憶と歴史が違うこと位、小学生でも分かると思います。

終戦の日の本日は、「大東亜戦争終結の詔書」を拝読し、昭和天皇をはじめ国民の苦しみを偲び、感謝の思いを新たにしたいと思います。

現在のさまざまな国の状態を考えるとき、いま一度、この「詔書」に込められた大御心をつつしんで深く考えることが大切ではないでしょうか。

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