日本人の死生観~魂の行くへ

年末年始篇 第33弾 令和4年12月25日放送

番組の趣旨

柳田國男の「魂の行くへ」という一文があります。昭和24年12月に書かれたもので、昭和20年の敗戦を受け、今後の日本がどのような道を歩むべきかについて心を砕いていた筆者のおもいの深さが偲ばれ、感銘深い一文です。

日本を取りかこんでいる様々な民族は、例えば仏教思想に代表されるように、死ねば途方もなく遠い所へ旅立ってしまうという思想を持っているようである。だが、このような考え方にとりかこまれていながら、不思議なことに、日本だけは違う。「独りこういう中に於いて、この島々にのみ、(死者の魂は)死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りも無くなつかしいことである」

「限りも無くなつかしい」という言葉は胸にしみますが、この切々とした感想の背景には、長い長い戦争の間、実に数多くの人が国のためにいのちを捧げていった、その人たちの魂は今どこにいるのか、それを日夜思い続けていた筆者の痛切な思いがあります。

柳田國男にとって、戦敗れたこの日に思うことは、ただひたすらに戦死者に対する慰霊でした。「少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒の謂う無縁ぼとけの列に疎外して置くわけには行くまい」として、戦死した若者たちを誰一人弔う人もないような状態に追いやってはならないと、心のこもった文章を残したのもこの頃です。「死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の高みから、永く子孫の生業を見守る」戦死者のまなざしを、厳しく己が心に受けとめることが、当時の柳田にとっては全てでした。

長々と柳田國男の言葉を引用したのは、私たちが日本人として生きていく、いわばその急所ともいうべきものがそこに語られていると思うからです。いうまでもないことですが、国のいのちは不断の持続感の中にあります。「先に生ぜむものは後を導き、後に生ぜむものは先を弔(とぶら)ひ、連続無窮にして、ねがはくは休止(ぐし)せざらしめんと欲す」(『教行信証』序)と述懐したのは親鸞でしたが、この先なる者が永久に日本の国土にとどまって後なる者の営みを見守っているという、それを単なる感傷としてではなく、日本人の魂のありようとして信じること、そこからすべてが始まるのではないでしょうか。

万人のように考えず、まったく自分流に信じ、信じたところに責任をもつ、それ以外にはないのではないでしょうか。

私たちは、祖国のために、命を捧げた先人の「魂の行くへ」を思うことなしに、日本のことを口にすべきではないとの思いで、今年も日曜討論番組を放送して参りました。

今年も残すところ、あと一週間となりました。以上のことを含め、この一年の反省する意味で、本日は、年末特別企画として『本人の死生観~魂の行くへ』をテーマに視聴者の皆様と共に、「なぜ日本人は辞世を詠んだのか」を考えながら、今もこの国を見守り続ける先人たちのまなざしを、改めて、それぞれの心に受けとめて戴きたいと思います。

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