日本建国史~神武東征と邪馬台国の謎を解く

日本の建国をお祝いする集い(平成29年2月11日開催)

講師:長浜浩明先生

趣旨

神武天皇を裏付けた「大阪平野発達史」

■戦前に教えられていた建国史とは

子供の頃、生家の床の間には「天照大神」と大書した掛軸が掛けられ、その上には今上陛下の婚礼写真が掲げられていました。では天照大神とはどのような神様だったのか、ご存じない方もおると思うので、戦前に教えられていた建国史の一端を紹介します。この根拠が日本書紀(720年に第44代元正天皇に奏上)です。ですから戦前は誰もが日本の建国を答えられました。「日本は神武天皇が橿原の地に第一代天皇として即位された皇紀前660年2月11日に建国されました。それが今上陛下の御先祖様であり、私たち日本人には神武天皇の血が入っており、皇室は私たちの祖先なのです。そして皇室のご先祖様は天照大神です」と。日本書紀の特徴は、神武天皇以後を歴史時代とし、その前を「神代」としたことです。神代には不可解な話も多いのですが、古代の人々はそれを「神話」として区別する理性を持っていたことが分かります。

■生國魂神社・神武天皇が祀られたのが始まり

(生國魂神社に)お参りを済ませ、どのような神社なのかと【いくたまさん】なるパンフレットを読むと次のようにあったのです。
御由緒 難波(浪速)と呼ばれた古代の大阪は、南北に連なる台地より成り、三方を海に囲まれた本流の打ち寄せるところであった。現在の上町台地である。この上町台地周辺の海上には、大小さまざまな島が浮かんでいた。大和川と淀川が上町台地の北端で交わって一筋の大河となし、上流より運ぶ砂礫が堆積して砂州となって、次第に島々(島嶼)を形成したのである。いわゆる難波の「八十島」である。これらの島々がやがて陸地と化し、現在の大阪の地形が形づくられた。今も市内に残る堂島、福島、弁天島などの「島」のつく地名が、古代を物語っている。斯く、大地生成の壮大かつ神秘に満ちた大自然の営みは、「八十島神」と称えられ、『古語拾遺』に「大八州の霊―日本列島の御神霊」(国土全体の国魂の神)と記された生島大神・足島大神(生國魂大神)の御神徳によるものであり、万物創造・生成発展の御神威の発揚に他ならない。古代の大阪は上町台地が中心であり、沖積作用により海が埋め立てられ、多くの島々ができ、今日の大阪平野が出来上がったというのです。次いで『創祀』を読んでみました。
創祀 社伝によれば、神倭伊波礼毘古命(第一代神武天皇)が御東征の砌、大阪の起源ともいえる上町台地の北端の地(難波之碕―現在の大阪城一帯)に、天皇御親祭により、国土の平安・安泰を願い、大八州(日本列島)の御神霊であり国土の守護神である生島大神・足島大神をお祀りされたのが、生國魂神社の創祀と伝わる。当神社が大阪最古にして、大阪の総鎮守と称される所以である。その後、大物主大神を相殿神としてお祀りする。何と神武東征のおり、ここに生島大神・足島大神を祀ったのが始まりだ、という話が大昔から語り継がれ、今日に到っているのです。記紀は、神武天皇は船で難波碕に上陸したと記し、生國魂神社の社伝にも神武天皇がやって来たとあります。近くに大阪湾や淀川もあるのですが、大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地。如何に大昔とはいえ、本当にこの辺りは海が湖だったのか、どのような地形だったのか、見当もつきませんでした。【略】

■現在の大阪平野は、河内湾、河内潟、河内湖の時代を経て生まれた

(大阪市立大学に開設された地学教室の)この研究は、約2万年前のウルム氷期から縄文時代を経て、現在の大阪平野が出来上がるまで、その形成過程を調べることを目的としていました。戦後の復興期、大阪でも多くの高層建物が建設され、戦後数十年に亘り隈なく掘られた地盤の調査資料から、大阪の地下構造と形成過程が明らかになっていったのです。この研究の優れた点は、採取されたサンプル年代を「炭素14年代」により確定したことにあります。…1950年、シカゴ大学のリビーが炭素14年代計測法を確立し、その9年後、この手法を日本に導入した学習院大学の木越邦彦氏の慧眼に敬意を表します。大阪市立大学教授の市原実氏らは学習院大学の協力を得て年代測定を繰り返し、大阪平野の発達過程を七つに区分しました。
・古大阪平野の時代:約2万年前
・古河内平野の時代:約9000年前
・河内湾Iの時代:約7000年~6000年前
・河内湾IIの時代:約5000年~4000年前
・河内潟の時代:約3000年~2000年前(BC1050年~BC50年)
・河内湖Iの時代:約1800年~1600年前(AD150年から350年)
・河内湖IIの時代~大阪平野I・IIの時代:約1600年前以降
その後、新たなデータを基に修正が加えられ、『続大阪平野発達史』、『大阪平野のおいたち』が公表され、この研究がわが国の建国史を明らかにしたのです。【略】

■「河内潟の時代」の理解が要となる

(河内湾IIの時代[約5000年~4000年前]より)更に2000年が過ぎ、縄文晩期から弥生中期前葉(約3000年~2000年前)、即ち、前1050年から前50年頃になると、河内湾は更に埋め立てられ、海から潟へと変わって行きました。これを「河内潟の時代」と呼んでいます。『大阪府市第一巻』に図が載っています。これは「河内潟の時代」(1972年)の図であり、この時代、上町台地から伸びる砂州は更に北進し、開口部は狭まり、河内潟に流れ込む河川水はここから大阪湾へと流れ出ていました。 大阪湾の干満差は約2mと大きく、上げ潮になると海水が狭まった開口部から潟内部へ流入し、4~5km奥の大阪城の辺りまで達していました。そして引き潮になると潟に流入した海水は、河川水といっしょに開口部から大阪湾へと勢いよく流れ出ていたのです。【略】この図の外形部分を示す太い実線は満潮時の汀線を表しています。‥‥河内潟開口部から森小路―大阪城辺りは水域を保っており、その奥の地形を梶山彦太郎氏は次のように説明していました。
「先に、河内潟の潮間帯(満潮と干潮の間)は、有明の干潟のように、泥の深いところであると書きました。しかし川の流れる筋のみは、上流から流されてきた土砂が積もってシルト(砂と粘土の間)または砂地となって、干潮時に、川底づたいに川の末端まで容易に行くことが出来ます。」(『大阪平野のおいたち』86頁)
ここに至り、日本書紀の記述が生き生きとよみがえってきたのです。永久に分からないと思っていた次なる描写は「河内潟の時代」の地形に則って描かれていたのです。「まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。」「川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。」 そうか、生國魂神社の社伝通り、神武天皇はこの時代に船でやって来たのだ。上げ潮に乗り河内潟内部に漕ぎ進み、干潮時に川を遡上し日下に着いたのだ、と確信したのです。

初代神武天皇はいつ即位されたか

■記紀に疑いの眼差しが注がれた戦後

戦後、記紀に疑いの眼差しが注がれた原因の一つに天皇の長寿があります。次なる百歳以上の天皇の宝算(寿命)を見て、実年とすれば疑念を抱くのは自然なことです。

100歳以上の天皇がこれだけおり、日本書紀と古事記の崩年も一致していません。この崩御年齢を見た医師などは、「生物学的にこんな長寿はあり得ない。だから古事記や日本書紀はデタラメだ」とせせら笑っていました。それは戦後教育を受けた者の一般的な反応でありましょうが、この不思議さを解こうとした研究は少なく、倉西裕子氏の試みはありますが(『日本書紀の真実 紀念論を解く』 講談社選書メチエ)解決とはほど遠い結果となっています。
その時代、なぜかくも長寿であったのか、記紀の編纂に携わった歴史家も疑問を持ちながら採録したと思われますが、彼らには慎みがあり、戦後の古代史家のように、ああ思う、こう思う、こう考えるのである、などと賢しらに振る舞ったりしませんでした。いい伝えられたことを忠実に再現したと思われます。【略】
実は古事記と日本書紀では倍半分近い崩年も採録されています。これは古事記を見た日本書紀の篇著者が何らかの理由で訂正したことを意味します。

では、常識的な寿命と思える古事記の宝算を知りながら、なぜ日本書紀の篇著者は敢えて倍近い宝算に書き換えたのでしょう。

■天皇の長寿を解くカギは「裴松之の注」にあり

実は、天皇長寿の謎を解くカギがシナの文献に残されています。三国志はシナ正史のなかでも簡潔な記述で知られ、南朝・宋の歴史家、裴松之(372~451)は多くの史料を使って三国志に注を書き加え、増補しました。それが「裴松之の注」であり、魏志倭人伝に次のような注記があります。
「其俗 不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀」(倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている)
「年紀」とは年の数え方であり、私はこの年紀を「春秋年」と呼んでいますが、この頃、倭人に接したシナ人は「倭人は一年を二年に数えていた」と書き残していた、とあります。すると、100歳を超える宝算は「春秋年」と考えられ、100歳を超える天皇の御代までは、何らかの形で「春秋年」が使われていたと推定できます。日本書紀に古事記の倍近い宝算が記録されているのは、古事記の宝算を見た日本書紀の篇著者が「記録はこうだ」と訂正したことを意味します。同時に、継体天皇の頃まで「春秋年」が残っていたことを示唆し、これらをベースに皇紀を実年に換算する原則を抽出すると次のようになります。
(1)推古朝など、皇紀と実年とが確実に一致する年代を起点に、過去へと遡る。
(2)「春秋年」の適用期間と範囲を見定める。
(3)歴代天皇の崩御年齢、崩御年、在位年数、即位年齢などに合理性があるか検討する。
(4)百済王の没年・即位年と日本書紀の記述とを照合する。百済王の年紀はシナの暦、実年で採録されていたからである。
(5)総合的に判断し、歴代天皇の在位年代を確定する。
日本書紀には欽明天皇14年(550年頃)に暦博士の話があり、その頃にはシナの年紀が用いられていたと考えられます。つまり、その頃までは「春秋年」が生きていた可能性があり、干支から西暦を推定するのは危ういのです。【略】

■皇紀を実年(=西暦)に換算する

実際の検討は、日本書紀をベースに歴上明らかな出来事や百済の記録と照合し、記述内容を判断しながら進めました。【略】

注目すべきは、神武天皇の即位年、皇紀660年を実年に換算すると前70年になることです。これは「河内潟の時代」であり、古地理図との整合性が保たれています。

■魏志倭人伝の倭国は、北部九州と半島南部一帯をさす

戦後の古代史論は記紀の否定、わけても日本書紀の否定から始まり、かわって重視されたのが魏志倭人伝でした。この書は、南朝・宋の陳寿(233~297)が編んだ『三国志』魏書・東夷伝・倭人の条であり、これを中心にわが国の建国論が展開されてきたのは、陳寿が邪馬台国、卑弥呼、壱与の同時代人であり、当時の倭国を知っていた、と考えられたからです。そして、今までの歴史家は「倭国・倭人」を「日本・日本人」としていたのですが、そうではなく、この書にある「倭国」とは北部九州が中心であり、倭人の住む地域とは、北部九州に加えて半島南部一帯をさす、と捉えることで古代史の見通しが開けるのです。【略】
このように(注:魏志倭人伝に記されているように)、倭国とシナは古より交流し、シナは当時の倭国の状況を詳しく知っていました。しかも『三国志』にある「倭人」の条は、「高句麗」や「韓」(馬韓、辰韓、弁韓)に比べても記述量も多く、詳しく書かれています。ですから私は、魏志倭人伝などは古代日本を知るうえで必要欠くべからざる史料価値を持っており、これらを無視して古代史を論ずることは出来ない、という立場です。ではこの書で古代日本の何が分かるのでしょう。【略】

■女王国は不弥国から1300余里以内の距離

(魏志倭人伝には)先ず「その北岸狗邪韓国に到る」とあるように、「その」は「倭」を意味し、「倭人」の地域が「狗邪韓国」とは奇異に感じますが、「韓」(馬韓)の祖先は「倭」だったのですから、この理解は当を得ています。半島の南部は倭人の住む地域だったということです。そして女王国、すなわち邪馬台国の都より北にある、条王国連合に属する国名が21並び「これ女王の境界の尽きるところなり」とあります。次いで、「帯方郡より女王国に至る一万二千里」とあり、この文章からシナ人の理解する倭国の領域は、半島南部から対馬・壱岐を経て北部九州を含む地域を指しており、女王の都、邪馬台国も北部九州にあることは明らかです。理由は簡単、帯方から女王国までは12000余里であり、帯方から不弥国までは10700里なのだから、不弥国から女王国までの距離はその差1300余里以内となります。
しばしば「短里か長里か」と論じられていますが、論ずるまでもなく、狗邪韓国から対馬までの約70kmを千余里とし、対馬から壱岐、壱岐から末廬国も千余里あることから、この書は「1里=約70m」としていたことが分かります。すると、邪馬台国は不弥国から70mの1300倍、最遠でも半径90km以内となり、川は蛇行し、日本のように山地が多いところでは道も直線ではあり得ず、山や川の迂回を考慮すれば、概略45~64km以内になるでしょう。
加えて注意すべきは、シナの使節が倭国にやってくるのは気候が安定する5月から6月にかけてです。夏至は6月20日頃であり、そのときの太陽は真東から約23度北から昇ることになります。すると地図上で東に向かうと、やや南に向かう、と感じられることになります。
そして御笠川河口辺りから遡上し、太宰府辺りにある投馬国に向かうと、これが南への水行となります。そこから陸行し、筑後川支流の船着き場に行き、その後、水行と陸行を交えながら筑後川を南下すれば、方位といい、距離といい、筑後川下流域の南方、旧山門郡周辺が有力候補となります。魏志倭人伝に書いてある通りに読めば、話は簡単なのです。【略】

■邪馬台国は旧山門郡瀬高町と推定

では女王の都する邪馬台国は具体的にどこにあったのか。それは新井白石に始まり津田左右吉や様々な歴史家が比定した場所なのですが、旧地番で福岡県山門郡瀬高町と推定しています。具体像としては、現在のみやま市瀬高町女山(旧名 女王山)の西の高台、女山神護石周辺には卑弥呼の宮趾があったのではないか。そこからは二本の中広銅矛や秀麗な首飾りが出土しています。また女山山頂から西を眺めると現在のみやま市から筑後平野一帯が見渡せるのですが、そこが女王の都する邪馬台国の範囲と推定できます。すると「女王の都するところ、7万余戸ばかりなり」なる魏志倭人伝の記述も納得がいくのです。【略】
町の観光パンフには高さ5m、周囲約140mの円墳・権現塚は卑弥呼の墓と紹介されています。更に、塚原巨石群には、戦前「卑弥呼神社」があったとのこと。何れにしても、これらの話はここが女王の住む都であった傍証として無視出来ないと考えています。(『国民のための日本建国史』)

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