偉大な天皇の道を歩まれた今上陛下~占領・戦後体制という逆境の中で

日本の建国をお祝いする集い(平成30年2月11日開催)

講師:江崎道朗先生

趣旨

現行憲法のもとで改悪された皇室制度

■敗戦時、11歳のご決意

占領下で中学、高校という多感な時期を過ごされた陛下は、独立を回復した昭和27年の11月10日に立太子礼を挙げられた。占領が終わり、我が国は独立を取り戻した。これから前途洋々たる未来が待ち受けているはずなのに、20歳を迎えた陛下は学習院での祝賀会において、次のようにお述べになっている。
皇太子たること、これは私の宿命であり私の意思を越えたことであります。この点で私は皆さんをうらやましく思うこともあります。それは恐らく、皆さんの豊富な多様な人間性に対するあこがれでありましょう。しかし私は私に与えられた運命を逃避することなく、運命の奥に使命を自覚し、これを果たす…私の現在考える最もよい生き方ではないかと思います。…私は皆さんとともに現実を見つめ、学問を修めて、これからの困難な道を進みたいと思います。

(『学習院百年史 第三篇』)

皇太子となった以上は「運命の奥にある使命を自覚し、これを果たす」覚悟だと雄々しいご決意をお述べになっていらっしゃるが、あたかも自らに言い聞かせるように話された陛下の目には、天皇となっていくことが「逃避」したくなるほど「困難」な道に映っていたのである。

■皇室を支える法的制度的仕組みを解体した占領政策

なぜ陛下は、独立を回復したにもかかわらず、天皇となっていくことが「困難な道」だとお感じになっていたのか。そのことを理解するためには、「戦後」という時代がどのようにして始まったのか、その構造的な問題を把握することが必要だ。

結論を先に述べれば、「皇室」廃止を国民に奨励する目的をもって始まったのが「戦後」という時代なのである。皇室を取り巻く「現実」を理解する上で重要なポイントなので、その経緯を、順を追って説明しよう。

昭和20年8月14日、ポツダム宣言を受諾した日本に対して米国は直ちに占領軍(GHQ)を派遣し、全国を軍事占領した。その総司令官マッカーサーに対して米国務省は、9月22日付で「降伏後における米国の初期対日方針」を示した。GHQは日本を占領して何をするのか、その「究極」の目的を次のように規定している。

日本国に関する米国の究極の目的にして初期における政策が従うべきもの、左のごとし。
(イ)日本国が再び米国の脅威となり、または世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にすること。
(ロ)‥‥他国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と原則に示された米国の目的を支持すべき、平和的かつ責任ある政府を、究極において確立すること。

つまり米国務省は、自国にとって「脅威」であった日本を、米国の国家目的を支持する「傀儡(かいらい)政権」へと国家改造すべく占領政策を実施せよと、GHQに指示したのである。その焦点となったのは、「天皇」であった。GHQは当時、皇室を支える体制が維持される限り、日本は再び復活してしまうという懸念を抱いていたのである。だからこそ昭和21年7月2日、GHQの上部組織である「極東委員会」は、『日本の新憲法についての基本原則』とする政策文書の中で次のような方針を示したのだ、

2.日本国における最終的な統治形態は、日本国民の自由に表明された意思によって確立されるべきであるが、天皇制を現行憲法(帝国憲法)の形態で存置させることは、前記の一般目的に合致するとは、考えられない。したがって、日本国民は、天皇制を廃止するか、またはより民主的な線にそって天皇制を改革するよう奨励されなければならない。
4.日本国民が天皇制を保持することを決定するとすれば、上記1及び2に列挙された事項に加えて、次の保障が必要とされる。(中略)
b.天皇は新しい憲法によってみずからに付与されている以外の権限を有してはならない。天皇は、あらゆる場合に、内閣の助言に従って行動しなければならない。
c.天皇は、1889年憲法第一章第十一条、第十二条、第十三条および第十四条に規定されたような軍事上の権能の全てを剥奪される。
d.すべての皇室財産は、国家の財産であると宣言される。皇室の費用は、立法府によって、充当される。

国民が皇室を圧倒的に支持している以上、皇室を支える制度を改悪することを条件に皇室の存続を認めるが、将来的に国民が「天皇」を廃止するよう奨励するために憲法を定める、と言っているわけである。連合国は、「天皇」を廃止させるため現行憲法を日本に強要したのである。

では現行憲法のもとで皇室制度はどのように改悪されたのか。
第一に、皇位継承のあり方などを規定した「皇室典範」改正も含め、国政についての発言権を奪われてしまった。平成18年に皇室典範改訂論議が起こった際も、自らの後継者の問題でありながら、天皇陛下が一切発言されなかったのはこのためである。
第二に、皇室を支える組織が廃止、縮小されてしまった。天皇陛下のご相談役という位置づけであった枢密院や華族制度は廃止された。皇室のご活動を支える宮内府も宮内庁に格下げされ、皇室を支える専門官僚の養成は軽視されることになった(現在の宮内庁の官僚のほとんどが外務省や厚生労働省、警視庁からの出向である)。
第三に、皇室財産の大半は強制的に固有財産に編入され、皇室経費は国会のコントロール下に置かれることになった。経済力を奪うことで、貧民救済のため全国に済生会病院を建てるなど、国家・国民のために皇室が影響力を発揮できないようにするとともに、国会の判断でいつでも皇室を財政的に窮地に追い込むことができるようにしたわけである。
第四に、多額の財産税の賦課、皇室の経済的特権の剥奪等によって、「皇室の藩屏」とされた11宮家は臣籍降下を余儀なくされ、皇室は、身近な相談相手を失うことになった。何よりも深刻な問題は、男系男子の皇位継承資格者が激減してしまったことだ。
第五に、旧皇室典範が廃止されたのに従って皇室のあり方を規定した法令の大半が廃止され、皇室の伝統が不安定な状況に置かれることになった。具体的には、皇位継承儀礼である即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)、ご葬儀にあたる大喪の礼などに関する具体的な規定が一切なくなってしまった。このため昭和天皇のご葬儀にあたって鳥居を設置するかどうか、また大嘗祭を行うかどうかといった議論が百出し、皇室行事に対する政令介入が行われるようになってしまった。
第六に、学校で「皇室排除」教育が横行することになった。昭和20年12月に出された「神道指令」によって学校教育から「建国神話」「皇統」「万世一系」が排除される一方で、「天皇」批判を目的とした国旗・国歌反対闘争が繰り広げられることになった。
そして第七に、刑法の「不敬罪」が廃止され、皇室誹謗記事がメディアに氾濫することになった。

このように「皇室」にとって圧倒的に不利な政治体制が現行憲法と関連法規に基づいて構築されたのが、「戦後」という時代であった。

法的にも制度的にも思想的にも皇室を支える仕組みがほとんどない中で、左派マスコミと革新勢力の批判の矢面に立たされながら天皇陛下は、皇位継承者として歩んでいかざるを得なかったのである。その構造はいまも基本的に何ら改善されていない。


皇室の伝統に基づいた大嘗祭の実施へ

■変質した政府との戦い

GHQによる「皇室」解体政策の悪影響は、戦後まもなく大学において顕著に現れるようになった。よく知られているように、60年安保から70年安保の時代に学園紛争が吹き荒れ、全国の大学は全学連によって席捲された。大学は急激に左傾化し、「天皇制」を打倒し社会主義革命を夢見る勢力が台頭するようになった。

一方、政権与党の自民党はロッキード事件に代表される汚職によって世論の批判を受け、昭和49年7月の参議院選挙で敗北し、社会党と自民党の勢力が拮抗する保革伯仲時代が到来する。

並行して学生運動指導者たちがマスコミや政府、大学に入り込み、「保守の顔」をして政府を動かすようになる。その影響を受けて政府の左傾化が始まるが、象徴的なのは昭和52年7月23日、文部省は学校教育の基準である「小・中学校学習指導要領」を全面改訂した際、ゆとり教育を導入する一方で、教育内容を精選するという名目で「天皇についての理解と敬愛の念を深める」などの字句を削除したことである。

恐らく教育課程の改悪を念頭に置かれてのことだろう。その年の12月、陛下は次のようにお述べになり、浩宮殿下と共に歴代天皇の歴史を学ぶご意向を示されたのである。

これは皆で考えた問題ですけれども、天皇の歴史というものを、その事実というか、そういったものを知ることによって、自分自身の中に、皇族はどうあるべきかということが、次第に形作られてくるのではないかと期待しているわけです。

(昭和52年 お誕生日前の記者会見)

心ある国民もまた、政府の「変質」を憂慮していた。皇室を支える仕組みを民間の手で立て直すべきだという意見が続出し、昭和52年頃から元号法制化運動が起こるのである。「このままでは次の元号は制定されなくなってしまうが、それでいいのか」という訴えは広範な支持を獲得し、昭和53年に「元号法制化実現国民会議」(議長、石田和外元最高裁長官)が結成され、翌昭和54年6月6日、元号法が成立するのである。

危機感を抱いた社会党は、元号法を契機に皇室制度が再建されていくことを阻止すべく執拗に政府を追及した。なんとその追及に政府は屈してしまうのである。

昭和54年4月17日、衆議院内閣委員会において社会党の上田卓三議員は「今回、この改元が元号法制化によって法律的に根拠づけられようとしているわけでありますが、改元の問題を皇位継承という一連の流れの一環として見た場合に、旧皇室典範に記されているような践祚、大嘗祭といった儀礼はどのような扱いになるのか」と質問した。

これに対して真田秀夫内閣法制局長官は「大嘗祭なんというのはおそらく国事行為としても無理なのじゃないかと思う」「憲法二十条第三項の規定がございますので、そういう神式のもとにおいて国が大嘗祭という儀式を行うことは許されないというふうに考えております」と回答した。大嘗祭とは、皇位を継承するにあたって、その年の稲穂を神々にお供えし、国家の安泰と国民の安寧を祈念される最も重要な儀式である。こともあろうに内閣法制局長官がその儀式を「行うことは許されない」と断言したのである。

その2年後の昭和56年、皇后陛下は「戦後生まれの世代が国民の過半数を占める時代になりましたが、今後、皇室の在り方は変わってゆくとお考えですか」という質問に、次のようにお答えになった。

時代の流れとともに、形の上ではいろいろな変化があるでしょうが、私は本質的には変わらないと思います。歴代の天皇方が、まずご自身のお心の清明ということを目指されて、また自然の大きな力や祖先のご加護を頼まれて、国民の幸福を願っていらしたと思います。その伝統を踏まえる限り、どんな時代でも皇室の姿というものに変わりはないと思います。

(昭和56年、お誕生日前の記者会見)

いかに時代が変わろうとも、政府が社会党の追及に屈しようとも、宮中祭祀において「歴代の天皇方が、まずご自身のお心の清明ということを目指されて、また自然の大きな力や祖先のご加護を頼まれて、国民の幸福を願っていらした」伝統を踏まえていくとのご決意を、皇后陛下は明確に示されたのである。

■戦後憲法下での「大嘗祭」

しかし、政府による「皇室の伝統」軽視の傾向は止まらず、宮内庁は昭和57年、ご高齢を理由に昭和天皇がお出ましの祭祀を4つ(春季・秋季皇霊祭、神嘗祭、新嘗祭)に制限してしまう。一連の政府の対応を受けて天皇陛下は、昭和61年5月26日付『読売新聞』に掲載された文書回答で次のようにお述べになった。

天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います・天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に苦楽をともにする精神的な立場に立っています。このことは、疾病の流行や飢饉に当たって、民主の安定を祈念する嵯峨天皇以来の天皇の写経の精神や、また、「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能ず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書などによっても表されていると思います。

ここで注目しなければならないことは、「後奈良天皇」について言及されていることだ。
1467年に起こった応仁の乱を契機に室町幕府は衰え、戦国武将による群雄割拠の時代が始まる。それは同時に、皇室を支える経済体制の弱体化も意味した。
1526年に31歳で皇位を継承された後奈良天皇1536年、践祚後10年目にして戦国大名の寄進で即位式をようやく実施できたが、費用のかかる大嘗祭を同時に行うことはできなかった。当時の文献によれば、皇居の土塀は崩れ、庶民らは三条大橋の上から内侍所(現在の皇居・賢所)の燈火が見えたほど困窮は甚だしかったという。

それだけに1540年から1545年にかけて疫病が蔓延した際には何もできないご自分を責められ、御自ら「般若心経」を書写されて全国25箇所の一宮に奉納された。そして1557年、大嘗祭を挙行されないまま、後奈良天皇は崩御されてしまう。

このように苦労された後奈良天皇について言及された背景には、畏れ多いことながら、ご自分も後奈良天皇のように政府の支援を得られず大嘗祭を挙行できないかも知れないが、それでも国民の安寧を祈り続けていくという悲壮なるご覚悟があられたのではないか、と思わざるを得ない。何しろ内閣法制局長官が「国が大嘗祭という儀式を行うことは許されない」と明言していた時である。

昭和62年9月22日、昭和天皇は腸通過障害で手術をされ、念願であった沖縄ご訪問は中止となった。翌昭和63年9月19日、昭和天皇は再びご不例となり、昭和64年1月7日、ついに崩御された。

直ちに皇位を継承された陛下がまず直面されたのは、占領政策に屈し、皇室の伝統を歪めようとする政府であった。政府は、昭和天皇のご葬儀を行うにあたって憲法の政教分離条項がある以上、皇室の伝統を歪めることもやむなしという判断を下そうとしていたのである。

危機感を抱いた「日本を守る国民会議」の黛敏郎運営委員長らが1月24日、竹下首相と会見し、ご葬儀は皇室の伝統に基づいて行われるよう強く要望した。最終的に皇室行事の「葬場殿の儀」において当初予定されていなかった鳥居と大真榊(まさかき)は設置されることになったものの、国家行事の大葬の礼において鳥居は撤去されるという事態になった。この間、憲法によって国政に関する発言権を奪われた陛下は父君・昭和天皇のご葬儀であるにもかかわらず、何ら発言することができなかった。

昭和天皇のご葬儀と並行して大嘗祭のあり方についても、憲法の政教分離条項との関連で議論になった。「即位の礼準備委員会」を設立し、現行憲法下での皇位継承儀礼について検討を進める政府に対して、神道政治連盟など民間有志による「大嘗祭の伝統を守る国民委員会」が約600万名の嘆願署名を集め、「即位の礼、大嘗祭が国家の儀式として伝統に則り斎行される」よう要望した。

この要望を踏まえ12月21日、政府の「即位の礼準備委員会」は、大嘗祭について「宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定できない」としながらも「皇位の世襲制をとる憲法下では国も深い関心を持たざるを得ない」とその公的性格を認めた。政府は、皇室の伝統に基づいて「公的行事」として大嘗祭を挙行することを決定したのである。

戦後憲法体制下において多くの制約を課せられたものの、皇室の伝統を継承できたことがいかに大きなことであったのか。天皇陛下は「(平成の19年間を)振り返ってみて、今まで直面した最も厳しい挑戦や機体はどのようなものでしたか」という質問に対して、次のようにお答えになっている。

振り返ると、即位の時期が最も厳しい時期であったかと思います。日本国憲法の下で行われた初めての即位に関わる諸行事で、様々な議論が行われました。即位の礼は、皇居で各国元首を始めとする多くの賓客の参列の下に行われ、大嘗祭も皇居の東御苑で滞りなく行われました。これらの諸行事に携わった多くの人々に深く感謝しています。

(平成19年 欧州ご訪問前の記者会見)

即位の礼・大嘗祭を行うことのできた喜びがこの発言から窺われるが、それは、誠に申し訳ないことながら、それだけ戦後憲法体制と、そのもとで変質した政府によって「厳しい時期」を強いられてきたということでもあると言えよう。

(『日本人として知っておきたい皇室のこと』)

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