領台時代から蔡英文までの台湾教育を語る

日本再発見・本篇第103弾 全6回 平成28年4月3日~5月8日放送

番組の趣旨

明治27年(1894)8月1日、朝鮮の帰属をめぐってわが国と清国との間で戦端が開かれました。日清戦争です。わが国の勝利に帰結した結果、明治28年(1895)4月17日、下関で日本側全権伊藤博文、陸奥宗光と清国側全権李鴻章、李経方とによって日清講和条約が締結され、台湾は清国より割譲、国際法上わが国の領土になりました。しかし、台湾における領土編入作業は樺太千島交換条約の実行のように、円滑に行われたわけではありません。清国軍との度重なる戦闘で、双方(特に台湾側住民)とも多大な犠牲を払いながら、ようやく成就したものでした。

わが国は当時、台湾に住んでいた人々に対し2年間の猶予期間を設けて、台湾に留まり日本人となるか、財産を処分して台湾を去るかどちらかを選択させました。よく考えれば、台湾住民が守ろうとした田圃や畑、住居等は果たして命を懸けて守らなければ失うものだったのでしょうか。本来、日清講和条約に定めた手続きで進めば無事に済むはずなのに、なぜ悲惨な戦いになったのでしょうか。彼らは、なぜ国際法を無視してまで戦いに踏み込んでいったのでしょうか。

新聞もラジオもテレビもなく、もちろんパソコンもインターネットもなかった時代、彼らの情報源も、法的概念も、国際観も、立身出世も清国の官僚たちに左右されていました。その官僚たち自身も、また科挙の産物そのものだったのです。よって、台湾全体、ひいて言えば清国全体が非常にナショナリズムに扇動されやすい状態に置かれていました。この現象は、今日の中国に非常に似ています。つまり清国の前近代的な教育と思想により、避けられるべき戦争が避けられなくなってしまったのです。

それから50年を経て、日本統治下の台湾は、近代教育により、清国の前近代的教育から脱皮し、当時のわが国に近い現代社会に変身しました。今日、台湾人と中国人の根本的な違いは、この50年間の教育のお陰であると言っても過言ではありません。

今回のシリーズでは、明治28年の台湾領有作戦の深層意義の分析からはいり、領台初期、中期、後期の教育に触れていきたいと思います。次ぎに戦後の国民党主導の教育に移り、最後は李登輝、陳水扁総統時代の台湾主体の教育を紹介し、討論を深めて参りたいと思います。

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