プロパガンダ戦「南京事件」~世界を欺く中国のデマ宣伝

第13回 追悼・感謝 英霊顕彰・県民の集い(平成29年8月11日開催)

講師:松尾一郎先生

趣旨

講演会 https://touron.live/event/?eid=4&mode=detail

質疑応答 https://touron.live/event/?eid=4&mode=detail&movie_id=4

映画『南京』の映像が物語る中国の大ウソ

■南京事件における注目すべき一級資料

史実の解明に一級資料が重要であることは述べた。南京事件や従軍慰安婦問題ではそうした一級資料による検証が全くないままに事実の如く独り歩きする状況も指摘した。
では、南京事件をめぐって貴重な一級資料は果たして存在しないのか。
実は存在するのである。このことはもっと注目されるべき事柄だと私は考えている。
その一級史料とは平成7年に発見された映画『南京』である。
映画『南京』は、正式には『戦線後方記録映画 南京』という。南京陥落の翌日から翌年にかけて南京城内外の情景や様子をくまなく撮影した記録映画で、東宝映画文化部が制作したものだ。
映像には整然とした街の様子が明確に残っている。これだけでも中国の主張する30万人大虐殺が全くの虚構であるとわかる内容で、間違いなく第一級映像史料といって良いだろう。
この映画は昭和13年2月に公開され、現在は絶版となっているが平成7年から20年までは市販されていた。全体が約1時間程度の映像となっている。
ちなみにこの映像が初めて世に出たのは平成7年12月6日の朝日新聞に掲載された「幻の映画『南京』50年ぶり発見」という記事が切っ掛けだった。
『南京事件の探求』(文春文庫)の著者、北村稔立命館大学教授はこの映画を観た感想を『諸君!』平成14年6月号で、「文字で書かれた記録を裏打ちする映像、いわゆる『南京大虐殺』が存在しなかったことを物語る…」と述べている。

■東京大空襲で焼失していた映画『南京』のフィルムが平成7年に北京で発見

当時の南京の実相を映し出している素晴らしい映像なのだが、読者のなかには一点疑問を抱く方もおられるかもしれない。それは南京で虐殺が行われていないことが一見して明白にわかる記録映像であるならば、なぜ東京裁判に証拠として提出されなかったのか?と。
それはこのフィルムを保管していた建物が昭和20年3月の東京大空襲によって焼失したためだった。平成7年までこの映像フィルムは日本国内に存在していなかったのだ。
東京裁判では南京事件の審議において映像史料としての提出がかなわなかった事はわかっている。しかし、もし仮に東京裁判においてこのフィルムが提出されていたならば恐らく現状は変わっていたのではないか、とさえ思えてくる。
消えたフィルムが残っていたのは北京だった。中国の軍関係者が持っていることが判明したことを受けて日本の関係者の尽力で買い戻されたのだ。
フィルムを買い戻したのは旧日本映画新社(現在は東宝に合併された)の白井泰二社長だった。白井社長は映画『南京』を撮影した白井茂カメラマンの二男だった。
買い戻された映画のオリジナル・フィルムをみると、全体が71分前後あるにも関わらず、約10分が失われており、58分29秒しかなかった。
このフィルムが販売された直後、私は多くの南京事件研究者の方々にそのことを知らせた。小林よしのり氏が『戦争論』などでもそのことを取り上げてくれた。私は当時からこの失われた10分程の映像をどうしても入手したいと考え調査を続けることにした。
10年前に入手した昭和30年出版の『写真「映画」百年史 第四巻』(鱒書房)には、映画『南京』の撮影時における南京市民の様子を撮影した写真などが掲載されている。
いつかはその映像を発見する機会が来るだろうと考えていたものの、それは突然、まさかの発見であった。(略)

■第一級史料である映画『南京』に映っていたもの

映像には何が映っていたのか。そして何が新たにわかったのか。
まず注目すべきなのは、映像には国民政府の指導者、蔣介石の邸宅が映っていたことだった。蔣が南京を去った後、邸宅はそのままの状態に保たれていたことが判る。内部は整然と保存され、応接室の壺や椅子などが略奪にも遭っていないのだ。現在、中国は日本軍が入城と同時に略奪を行ったとする主張を繰り返しているが、これがウソである事が容易に理解出来る。
中国はさらに日本軍が組織的に略奪や放火を行ったとも主張しているが、映像は全く逆の事実を写し出していた。歩哨を立たせ略奪などの不法行為を防いでいる様子が映っているのだ。整然と残された南京政府の建物(中央党部、軍政部、海軍部、鉄道部、外交部、軍官学校)を保護しようとする日本軍の様子も映っていた。
映像には南京近郊の明代の史跡、明孝陵や孫文の中山陵についても記録されていた。証言や戦史に記録されている通りであり松井石根(いわね)司令官の「むやみに放火したるモノは厳罰に処する」という厳命が攻略線において徹底されていた事を裏付ける。
さらに上海戦等における中国側戦死者や戦没者を埋葬した墓地、音楽堂、運動場、天文台に据え付けられた対空機関砲や取り残された市内バリケードなども確認できた。
さらにドイツのシーメンス社に発注し納入されたであろうと想像出来る防衛用の砲台も確認出来た。

■中国軍の"漢奸狩り"によって数千人の中国人が処刑

これらの映像でもうひとつ私が注目しているのは、これまで陥落前の南京で行われていたとされる "漢奸狩り"(漢奸とはスパイ、裏切り者を指す)についてだ。蔣介石は自分が敗走を重ねる原因について「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして取り締まりの強化を指示したといわれている。「漢奸狩り」こそ殺戮政治の如き虐殺であって民衆を極度の不安に陥れた。当時の日本側にも記録が残されている。
昭和12年12月号『画報躍進之日本』には「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿 辻英二」と題した記事には昭和12年10月25日に南京から上海に逃避して来た支那人の話が次のように引用されている。
「戦争が始まった当時は漢奸の名目で銃殺される者は連日八十名にも及びこの頃でも毎日数十名が銃殺されている(中略)親日派を片端し漢奸と称して死刑に(中略)」
「今度の事変で支那では物凄いスパイ狩りをした。漢奸と称して日本人と交際していた支那人や、日本のことをよく知っている彼等の同胞をドンドン銃殺していることである。すでに銃殺された支那人約二千名にのぼりその多くは日本留学生で親日派とかスパイとかの名目で赤く衂くられてしまった。
そのため従来日本側と交渉の深かった外交部アジア司長高宗武とか汪兆銘の片腕で名高い曾仲鳴、褚民誼、または実業家の周作民、許卓然といった連中は監禁されていたり、生死不明になったり、何澄をはじめ新聞記者六名(大公報二名、大美晩報二名、チャイナ・プレス一名、チャイナ・ウィークリー・レビュー一名)はすでに処刑されたのだ。前記の諸氏は僕もよく知っている連中だが決して親日派でもなくもちろんスパイではなかった。ただいずれも日本語をよくし、日本を非常によく知っていた連中に過ぎなかった。日本に対していつも噛みついて来るのはかえって前記の諸氏や支那新聞記者諸君で日本を知ると同時に愛国心の強い連中であった。それなのにこうした連中が血祭りにあげられるというのは何という逆上ぶりだろうか」
今回の10分の映像には、南京市内の至るところに、日本軍に好意を持つ者について漢奸として処分されると告げる中国語のポスターがいくつも貼られており、「住民を戦慄せしめた漢奸狩りのポスター」「疑心暗鬼。時には一日に何千人もの死刑が執行されたという」という説明が出てくる。
映像の終盤には街中の至る所に公共防空壕が設けられていることや、蔣介石が去った後、南京の防衛を任された司令官、唐正智による避難布告もはっきりと映っている。
自分がこれまで収集、所有している南京事件をめぐる写真記録には無い未発見の映像も数多く含まれていた。先の北村稔教授の言葉を借りれば、当時の史料や記録にある「文字で書かれた記録を裏打ちする映像」そのものだというのが映像を分析した私の実感である。

■日本側の資料を裏付ける整然とした占領

私は拙著『プロパガンダ戦「南京事件」』(光人社)において、南京陥落後、城内外に於いて最大約2万人の戦死者、摘出された便衣兵(ゲリラ)などの死体が存在していたと結論づけた。それらは戦闘や便衣兵狩りにおいて処刑された死体だろうが、中国軍自身が処刑した犠牲者達については触れていない。漢奸狩りによって数千人の犠牲者数が存在する事は、この映像からも推察が出来る。もしかすると戦闘による戦死者数は1万人弱だったのかもしれない。
 平成7年に発見された映画『南京』にも映し出されているが、この新たに発見した映像によって当時の南京が日本軍の攻撃によっても、建物はそれほど破壊されてはおらず、むしろ城内がかなり被害無く平穏であった事が改めて確認出来る。主要な政府の建築物も残され、日本軍側の残された史料を完璧に裏付けていることが解る。
 整然と占領が行われた事は疑う余地は無いだろうが、しかしながらこの映像の裏では便衣に着替えた中国軍兵が国際法違反のゲリラ活動を陥落直後から行っており、日本軍が彼等を摘出し下関(シャーカン)において数千人を国際法に基づき合法的に処刑したのだろう。
 新たに発見された映像によって更に南京事件の解明が進むことは間違い無い。改めてこの映像を記録された先人の方々に心から感謝を表したい。
 最近では南京大屠殺記念館を訪れる日本人が年々減っていることを聞き及ぶ。この様な第一級映像史料が次々と発見され、中国側の主張が如何にデタラメであるか。次々と明るみになっているからに違いない。日本はこうした研究を地道に継続しながら、一歩ずつでも歴史の真実を広く知らしめる事が大切だと思う。

(『正論』平成26年4月号)

「南京大虐殺」は果たしてあったのか?

■「大虐殺」の定義とは何か

そもそも「大虐殺」とは何か。一般の用語でいえば虐殺とは、「むごたらしい手段で殺すこと」(広辞苑)である。国連が1948年に議決した通称ジェノサイド条約では、
「集団虐殺罪とは、国民的、人種的、民族的、宗教的集団の全部又は一部を破壊する目的をもって次の行為を行うものをいう。
①集団の構成員を殺害すること。
②集団殺害の共同謀議。
③集団殺害の直接かつ公然の教唆。
④集団殺害の未遂(など)。」
 となっている。この定義こそが計画的・組織的な大量殺戮―つまり大虐殺を意味するものであろう。
「大虐殺事件」で最も著名なものは、大量のユダヤ人を殺戮したアウシュビッツの大虐殺であろう。第二次大戦中のソ連軍がポーランド将兵4400人を鏖殺(おうさつ)したカチンの森事件、ベトナム戦争におけるアメリカ軍によるソンミ事件なども大虐殺の部類に入る。

■人類史上最大の大量殺人は毛沢東(『ギネスブック』昭和55年版)

ギネスブックによると、「人類史上最大の大量殺人は、1949年~1965年5月の間、毛沢東の支配する中国で行われた中国人2630万人の殺害といわれている」(昭和55年版)。また、ソビエトの革命では、2000万人以上のソ連人を粛清し、3000万人のウクライナ農民を餓死に追い込む政策をとったといわれる(那須聖『ソ連見たまま』)。カンボジアのポル・ポト政権によるカンボジア人の殺害は、200万人とも500万人ともいわれる。これらは、明らかにジェノサイド条約に違反する大虐殺である。南京事件は、この種の大量殺戮とは全く性格を異にするものだ。
以下は、東京裁判が判決するような20万人にも及ぶ組織的な「南京大虐殺」があったのか―。中支那派遣軍の司令官であった松井石根中将の元私設秘書の田中正明氏(明治44年~平成18年)の所論を参考に行った9つの検証である。

[1]120人の特派員が誰一人目撃していない
南京は近郊まで含めて40平方キロメートル。東京・世田谷区よりも狭い都市である。昭和12年12月13日の陥落と同時に入城した新聞・雑誌社の特派員やカメラマン(外人記者5人を含む)は約120も人いた。そのほかに占領直後に入城した大宅壮一、西条八十、草野心平、小林秀雄、石川達三、林芙美子といった著名な評論家、詩人、作家など十数名が取材に当たっているが、誰一人として死体の山も血の河も集団殺人現場も見ていない。現在の教科書では「国民には知らされなかった」とあるが、当時の軍も政府も、箝口令(かんこうれい)などひいてはいない。記事も写真も自由だった。

[2]あまりにも平和的な南京占領後の朝日新聞の記事
南京に入った新聞社各社は占領後の模様を本国に報道したが、特に、朝日新聞は、日本軍占領下の南京の情景を占領5日後の12月17日から1ヶ月間にかけて5回にわたり、半頁大に4枚の組写真にして克明に報道している。
そのテーマは、
「平和甦る南京」「きのうの敵に温情」
「南京は微笑む」「手を握りあって越年」
「南京復興の足どり」
と平和そのものの報道である。
一般に南京大虐殺は、南京陥落の12月13日から6週間に亙って虐殺、略奪、強姦、放火の悪事が恣に行われたとされている。しかし、南京が地獄に陥っていれば、如何に演出しようともこのような表情の写真や記事を掲載することは不可能であろう。

[3]当時、国民党も共産党も「大虐殺」に全く触れてない
言うまでもなく、当時日本軍と戦ったのは、蒋介石率いる国民党政府とその軍隊である。この軍司令官兼軍事委員長の何應欽(かおうきん)上将がまとめた報告書があるが、これは実に詳細を極めており、南京戦での死傷者数は将校・下士官に分けて十の単位まで些細に戦闘状況を記録した第一級の公的史料である。しかしここでは、「(12月)12日‥‥ついに南京放棄を下命した。敵は13日我が南京城を占領した」と報告があるだけで、虐殺やそれを匂わす記述は一切ない。
では、当時の中共軍や中国共産党の記録はどうか。当時の中共の『軍事雑誌』1938年6月20日刊行第一〇九に初めて南京の戦闘記録が出てくるが、ここでは、蒋介石や何應欽が部下を置き去りにして南京を放棄したことを非難しているだけ。もし大虐殺が行われていたら、これこそ絶好の抗日宣伝の材料として戦闘を煽ったであろうが、南京虐殺には何も触れていない。

[4]日本軍の「美挙」に感謝した国際委員会
馬報俊・南京市長は陥落直前の12月1日、全市民に市-中央に設けられた「国際安全区」に避難するよう命令した。ここを管轄したのは、米・英・独など15名が組織する「国際委員会」である。南京占領後、日本軍はこの安全区に見張りをつけ手厚く保護した。また安全区内では砲爆撃も火災もなく、20万市民は全員安全であった。このことに対して、国際委員会のラーベ委員長は次のような感謝の書簡を日本軍に送っている。
「拝啓 私共は貴下の砲兵隊が安全区域を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の擁護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」

[5]人権にうるさい欧米各国は虐殺を黙殺したのか
人権にやかましい欧米の政府やマスコミが、何十万の大虐殺を見逃すはずがない。当時、国際連盟は「対支援助小委員会」までつくり日本の軍事行動を監視したが、当時、南京・広東などの戦闘で、日本軍が絨毯(じゅうたん)爆撃をしたと非難決議したが、南京虐殺などは話題にものぼっていない。わずか2人の記者が日本軍の暴行を記事にしたが、各国の大新聞が、南京で起こったはずの「大虐殺」を報じ非難した形跡が全く残されていないのはどういうわけであろうか。それはそのような事実が全くなかったからにほかならない。

[6]南京の人口が占領1ヶ月後に増加
占領10日後の12月23日には「南京自治委員会」が結成され、陶錫山(とうしゃくざん)が委員長に推された。1月3日の結成大会には3千数百人が会場の鼓楼を取り巻いて、旗行列でこれを祝福した。また、公称20万人の市民が、1ヶ月後の1月14日には25万人に増加した旨を国際委員会は発表している。これは、南京の治安が回復し郊外に避難していた民衆が正月を控えて続々帰還したためだ。だいたい20万人以上もの大虐殺が行われ、死体が至るところに転がり、身の毛もよだつような街において自治委員会を結成したり、大量の市民が帰還することなどありうるだろうか。自治会への協力どころか身の危険と恐怖から帰ってきはしない。

[7]目撃者のない「累々たる死体の山」
東京裁判では、「南京城内は累々たる死体の山」「道路には二条の血の川が流れ」「流血は膝を没し」といかにも凄惨な状況が次々証言された。裁判で「12000人の男女・子供が殺された」と証言した金陵大学のベイツ教授は、占領当時インタビューを受けた東京日日新聞の特派員に
「秩序ある日本軍の入場で南京に平和が訪れたのは何よりです」(同紙12月26日)
と答えている。中国側証人でも直接の目撃者はいなく、当時の伝聞をもとにした証言しかない。南京における中国側犠牲者には、南京攻防戦での戦死者や、掃討作戦による敗残兵や市民を装った便衣兵の被処刑者、中国軍に協力して死亡した市民などがある。これらは純然たる戦死者及び準戦死者にあたるもので、戦時国際法で禁じている戦争犯罪でもなければ、虐殺にもあたらない。

[8]戦後、「南京敵人罪行調査委員会」を作り、大々的な調査を行ったが集まらなかった大虐殺の情報
「南京虐殺」は東京裁判から始まった事件である。その裏付け資料を作るため、中国は戦後「南京敵人罪行調査委員会」を作り、14の団体が集まり、全市をあげての大々的な調査に乗り出した。
ところが、大虐殺の情報が少しも集まらず、手を変え品を変えて募集した結果、1人の男が、私は日本軍が57,418人を殺すのを見たと証言した。この男は、魯甦(ろせい)という警察官だが、果たして、人間ひとりの力で1桁の端数まで正確に数え上げることができるだろうか。普通に考えてもそれだけの数であれば、広範囲に亙っているだけでなく、死体は幾重にも重なったり、中には建造物の下敷きになったり、正確に数えることのできない死体はかなりあるはずだ。とても信憑に値する証言ではない。

[9]埋葬された死体の数は一万前後。その素性はほとんどが中国軍の戦死者
東京裁判の判決に決定的な証拠力を持っていたのが、南京における被害者の埋葬数である。この埋葬にあたった団体の証言では、崇善堂が約11万2000体、紅卍会が約4万3000体、あわせて15万5337体処理したことになっている。
ところが、崇善堂は、当時埋葬活動を行っていなかったことが、中国側の資料[中華民国27年度(昭和13年)南京市政概況他]で明らかになっている。崇善堂は、事件後4ヶ月間、埋葬活動を行ったと証言したが、実際は事件8ヶ月後に活動を再開した団体であり、埋葬11万2000体は全く架空の話であることが判明した。
また紅卍会の数字も大幅な水増しがある。これは賃金を多く貰うために紅卍会が水増しした埋葬数を報告してきたためである。当時、埋葬にかかわった南京特務機関の丸山進氏は次のように述べている。「1日の埋葬数は多くても200体。大体180体くらいというのが紅卍会の能力でした。それで2月末までに約5000体を埋葬しました」
ところが、悪臭を放つ死体は暖かくなる前に埋葬を終わる必要があったために特務機関は、トラック5台を与え、1日当たり30銭の割増を出すことを条件に、昼夜なしで埋葬作業をやらせたところ、3月の1日の埋葬数は600体から800体に増大したという。そして東京裁判に提出された「埋葬表」の作業日時に従えば、1月下旬から2月末までの実働日数は22日間、3月中は10日間である。この実働日数と丸山氏のいう「1日当たりの埋葬数」を計算すると、2月末までに200体×22日=4400体、3月中に600から800体×10日=6000から8000体、合計10400から12400体となる。この数字は、昭和13年1月から4月までに9364体を埋葬したという『南京市政概況』(南京特務機関調整)の数字とほぼ一致する。以上のことから、紅卍会の埋葬数は1万前後であり、その素性は殆どが中国軍の戦死者と推測できる。何故なら南京戦史編集委員会による『南京衛戌戦闘詳報』の分析では、12月4日から12日夕方までの戦死者が12366人と推測されているからである。

(出典及び参考『アジアと日本の大東亜戦争』・『再審「南京大虐殺」』)

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