戦艦大和からのメッセージ

日本再発見・本篇第121弾 全4回 平成30年5月20日~6月10日放送

番組の趣旨

呉市の大和ミュージアムに台湾出身の帝國海軍少尉浅羽満夫の手記である「戦艦大和と私」が陳列されています。今回、ミュージアム図書室のご厚意で、手記の全文を拝読することが出来ました。お蔭様で、昭和20年4月7日特攻出撃した戦艦大和の最後の姿を窺うことが出来、特に、艦橋における部下の命を如何に温存するかに苦慮した長官達の人間性に感銘を受けました。

何故、大和にこれだけ人間性溢れる長官達が存在したかを理解するため、海軍兵学校を始め、呉、横須賀、舞鶴、佐世保に足を運び、資料を探し、帝國海軍創設当初の思想を一から勉強させて頂きました。

明治6年、帝國海軍は当時最強の海軍を学ぶため、英国からア一チボールド・ルシアス・ダグラス海軍少佐らを招聘し、英語、数学と実地訓練に重点を置く教育方針を打ち出しました。

明治26年、海軍大臣官房主事山本権兵衛大佐が立案し、派閥解消のため、海軍兵学校出身者を重要ポストに起用しました。この改革こそが2年後の日清戰争の決定的勝因に繋がったと思います。

昭和17年から昭和19年まで、海軍兵学校の校長であった井上成美中将は、昭和17年入校の74期生定員1,028名に対して、昭和18年12月入校の75期生定員を3,480名に増やしました。更に76期と77期の採用試験は昭和19年7月、同時に行われ7,300余名が採用予定者と決定しました。これは敗戦色が濃厚になってきた時、密かに戦後復興の頭脳を集め、英語、数学を中心とした教育を敢行した奇策ではなかったのでしょうか。

孫子曰く、「勝兵はまず勝ちてしかるのちに戦いを求め、敗兵はまず戦いてしかるのちに勝ちを求む」

日清戦争の2年前、人事改革により強い海軍を作った日本、大東亜戦争終戦の2年前、次期経済戦の人材一萬余名を確保した日本、これこそ日本の強さの秘密であり、我々が学ぶべき先人の英知であると考えます。

73年前の4月7日午前6時頃、大隅海峡を通過した戦艦大和の乗組員達はどのようなご心境で、この本土最後の富士――開聞岳を仰ぎ見たのでしょうか? また、開聞岳はどのようなお気持ちで、特攻出撃の大和を見送ったのでしょうか? 当時とほぼ同様の気象条件の中、あの最後の激戦とほぼ同じ時間帯に開聞岳に登りました。後を追うわけにはいきませんが、せめてその場の雰囲気を体感したい。そして、紺碧の空と海の間に、この国のあるべき姿を再考したい。只々、そんな思いでした。

今回のシリーズでは、この思いをお伝えし、視聴者の皆様と共にこの国のあるべき姿を考えて参りたいと思います。

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